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黒森山の麓から

curomori.exblog.jp

宮城県女川町、黒森山の麓で育ちました。3.11東日本大震災情報

8月16日に宮城県の南東に浮かぶ“江島”に渡った際のレポートを、写真を中心に。

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宮城県牡鹿郡女川町江島。
父親の実家がある島ということもあり、幼い頃から盆暮れには必ず訪れていました。
実は自分の本籍地も未だに江島。

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前編で掲載しきれなかった画像をアップします。

港の全景
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栄存神社裏への階段(途中には江島灯台も)
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江島灯台(地震で崩れたのだろうか。。)
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栄存神社を裏手から(屋根は一面ブルーシートで覆われていた)
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栄存神社正面(周囲の墓地は、私が幼い頃に比べだいぶお墓が減っていた。お盆で献花されたお墓が三基のみ。)
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画像は以上。
他にフィルムで撮影してきたが、現像できたらアップするかもしれません。


実質滞在2時間だったので、もう一つの港や、旧学校、よく海水浴をした浜などは見て回れなかった。
また近いうちに、江島を訪れてみようと思う。

生活したことは一度も無いのだけれど、人生の岐路には何故か訪ねてしまう場所。
ひとまず、今回の訪問で以前と大きく変わらない状況が見れたことに安堵した。
島にあれだけ沢山いた猫達の姿が、一切見れなかったことを除いては。
# by kuromori525 | 2011-08-20 01:07 | 女川
3月以来、久しぶりの更新。
前回までのブログでは、震災間もない3月19日の女川入りをレポートしてきましたが、最後のまとめを残して更新が滞ってしまいました。。。
万が一更新を待っていてくれた方がいたとしたら(何人かに更新をせっつかれましたが)申し訳ありませんでした。

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さて、今回は8月16日に宮城県の南東に浮かぶ“江島”に渡った際のレポートを、写真を中心に。

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宮城県牡鹿郡女川町江島。
父親の実家がある島ということもあり、幼い頃から盆暮れには必ず訪れていました。
実は自分の本籍地も未だに江島。

昔は、煙突から煙をモクモクはきながらのんびり進む「江宝丸」で、女川から45分ぐらいの航路。
シケの時なんかは二股島をぐるーっと廻って、島の反対側の船着き場に着岸してたこともあったなぁ。
あそこで船と岸壁の間に落ちてしまって、死にそうになったことも今は良い思い出w

現在では連絡船を運行する会社も変わったようで、船も高速船になって25分程度で行くことが出来る。

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※平時は当然料金がかかりますが、しばらくは無料のようです

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※途中で見える二股島。シケの時はこの裏をぐるっと廻りました

この日は、前日深夜まで同級生と酒盛りのせいで最悪の体調。
幼い頃同様に船酔いを覚悟していたが、完全なるべた凪で杞憂に終わる。

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※いよいよ島が見えてきた。

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実は、震災後の江島の様子をGoogle Mapの航空写真で見ていて、島の現状がどんな状態なのかすごく不安に思っていた。
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岸壁にはみっしりと瓦礫が流れ着いていて、とても連絡船が着岸できるような状態ではない。。
なので、実際に今の状況をこの目で見てみるまでは、不安な気持ちを抱いていたのもまた事実。
記憶の中の江島の光景が、女川の市街地同様消え去っているのではと。

********

でも、実際に江島に到着してみると、、、
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意外なほど記憶の中の光景と違いがなく、なにかホッとした気持ちに。


しかし、一旦島に上陸してみると、そこかしこに津波の爪痕が・・・
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倉庫は破壊され、岸壁も一部は崩壊し、船溜まりにはフォークリフトなども沈んでいる。
やはり江島にも、巨大な津波と地震の力はしっかりと痕跡を残していた。
また、地盤の沈下は江島も同様で、満潮時には連絡船の着岸も困難らしい。


それにしても、GoogleMapの状態から比べたら驚異的な回復状況で、連絡船や江島関係者の方々の復旧に対する努力に、ただただ頭が下がる。

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気をとりなおして、父の実家のがあった江島郵便局へ歩を進める。

最初の階段脇の洗濯用井戸。
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漁協の建物は中がガランドウで、この高さまで津波が来たのではないかと推測される。
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そしていよいよ今は空き家、旧澤村邸へ。
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外観はもとより、内部も目立った損傷なし。
冷蔵庫や、箪笥の引き出しが飛び出したりしてはいたが、思っていたほどのものではなかった。
これならむしろ、東京の我が家(冷蔵庫が倒れたり本棚が倒れたり、食器が散乱したり。。。)の方が被害が大きかったのではと考えてしまう。

この状況は島全体の家屋に言えることで、一部瓦が落ちてしまっている建物もあるが、これといった大きな被害は出ていない印象だった。
結局のところ、津波の有無が今回の震災の運命の分かれ目なのだろうなと再認識した。



ここからは、島内各所の画像を列挙します。
地名や、ここは某家などといった島内の情報に疎いので、知っている方がご覧いただいて、各自現状をお察しいただければ幸いです。

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笠貝島を望む
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久須師神社(法印神楽の復活を期待)
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ここでブログの画像サイズオーバーとなってしまいました。。。
続きはページをかえてアップします。
# by kuromori525 | 2011-08-20 00:41 | 女川
3/18〜3/20にかけて強行した、被災地女川への現地入りレポートです。
時系列に沿って、画像を交えつつ報告します。

****************
総合体育館の避難所、実家があった女川浜字大原、通称“ずいどう”(石巻線トンネルより奥)地区の様子を中心にレポートします。


妹の意外に元気そうな姿に安堵しつつ、避難所となっている総合体育館へ向かうことにする。
町立病院の坂道を、石巻線女川駅方面へ下っていく。途中、津波に完全にのみこまれた町役場や、破壊され尽くした駅前の商店や銀行、駅から遥か彼方の高台にある墓場まで流された石巻線の車両などが目に飛びこんでくる。
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記憶の中にあるイメージと、目の前に広がる現実がどうしても結びつかず、今すぐ車を飛び出して確かめたい衝動に駆られる。ハンドルを握り、先を急ぐ兄に一時停車を求めるが「両親の無事を確認するのが先だ!」と一喝され、我に返る。

駅があった場所を抜け、第二小学校に続く急な上り坂を越えて、総合体育館にたどり着く。
自衛隊の車両や、難を逃れて避難してある車の列をすりぬけながら、体育館手前の駐車場に車を駐めた。
体育館の前には、妙にゆっくりとした動きの人々が行列を作っている。昼にはいくぶん早い時間だが、炊き出しの行列だろうか?
ひとまず、親類が身を寄せているとの情報があった2階の武道室を目指す。中学の頃剣道部に所属していたせいもあって何度も通った場所なのだが、まったく懐かしさをおぼえない。あの頃とは、あまりにも現実がかけ離れすぎている。
同行していた従兄弟が武道室の柔道場に親類を捜しにいっている間、薄暗い武道室の入り口付近で周囲の状況を改めて見回してみる。
新聞紙や、段ボールを敷いて通路に横たわる老人。
段ボールの粗末な仕切りの隙間に、毛布にくるまりうずくまる中年の女性。
状況がのみこめず、無邪気に走り回る子供達。
そんな野戦病院さながらの避難所内の光景に、息をのんだ。
こんな中で、絶望や不安を抱えて幾日も夜を越えているのか。
自分の貧弱な語彙では、もはや表現できない。


しばらくして戻った従兄弟に、いるはずの親類が今朝仙台に避難した後だったと聞き、総合体育館を出た。そこからは、従兄弟と自分たち兄弟の二手に分かれる。
従兄弟は女川の奥まった地域、清水地区で別の親類を探索し、自分たち兄弟は総合体育館の裏手にある山道を下って実家があった通称“ずいどう”地区を探索することにした。
実は数日前に、両親に会って話をしたという人から「両親は実家のあった場所の近くで野営生活をしているらしい」と聞いていた。生き残ったずいどう地区の住人と、衣食住を共にしているらしい。
15:00に総合体育館に集合する事にして、それぞれの目指す地へと向かった。

総合体育館の裏手には、アスレチックフィールドや、スタンド完備の野球場、県内でも指折りの陸上競技場などがあって、平時は様々な競技会が開催されている。小高い丘の上には東屋と展望台があって、女川町内や遠くは江ノ島まで望む事が出来る。道すがら、何年か前の正月に初日の出を見に来た事をふと思い出した。思い出や記憶は、そうやって蘇ってくるものなのだ。
アスレチックフィールド脇の山道をずんずんと進むと、実家の前を流れる小川の上流に出る。その川に沿って下っていくと、ブルーシートを張ったような場所に煙が見えて、何人かの人影が見えてきた。兄とともに、人影の中に両親姿を探しつつ急いで近づく。
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見知った顔が私たちが近づいてくることに次々気がつき、大きな声で迎えてくれた。

よかった、、、、いたよ、いてくれたよ!

はじめは、見慣れない上着をもっこりと着込んだ上にマスク姿ということもあり、母親とはわからなかったが、近くに行って声を聞いてやっとそうなのだと理解する。
次に親父の姿を探してみるが、すぐには見つからない。さらにブルーシートテントの中を注意深く覗いてみると、これまた見慣れない上着の上に、見慣れた顔が見つかった。

よかった。。。。

それにしても、ウチの家族というのは感動の再会という儀式とは無縁らしい。
母親は、年に数回の帰郷時とほとんど変わらぬ出迎えだし、父親に至ってはブルーシートテントの奥に鎮座したまま微動だにしない。それはそれで安心するのも事実だが、いやはや。

しかし、今になって考えてみると、生きていた喜びをうまく表現できない状態だったのかもしれない。隣人の死を目にあたりにし、幾度も襲う津波の恐怖におびえ、冷徹な雪が舞う寒空に凍え、満足に食事もとれない状況。
後にしみじみ父が語った一言を思い出す。
「何もすることがない夜、たき火を囲んで語ったよ。いっそ死んでしまっていた方が楽だったな」と。


一息ついてマスク越しの表情を見てみると、一気に老け込んだ様子がうかがえる。
数ヶ月前に比べ、皺は深くなり、白髪も一気に増え、拭いきれない疲れの色も見てとれた。
多くは語らなかったが、想像を絶する体験の爪痕が、老いた体に深く重くのしかかっている事実を、受け入れざるを得なかった。


*** 父が語った“あの日” *****

聞くところによると、実家のあった“ずいどう”地区で避難できたのは十数名だったらしい。
遺体として見つかったのは、3/19時点で十数名。
百名近くいた住民の多くは、たまたま不在にしていて避難できたのか、もしくは今だ瓦礫の下ということになる。
女川町全体での生存者数の比率(1万人弱の住人中、生存確認がとれたのは6324人・・3/21時点)と大きくかけ離れた現実に、すぐには状況を理解できなかった。

ここまで大きな被害となった要因は、避難指示を伝えるであろう防災無線がまったく機能していなかったことに尽きるようだ。父の話によれば、大きな地震の後、防災無線が何かを伝えようとしているのはわかったが「ガー」や「ピー」など、断続的な音がするだけで全く聞き取れる状態ではなかったらしい。
父はたまたまTVをすぐにつけて、大津波警報が発令されていることを知って避難に動いたが、TVを見ていなかったり、見れる状況になかった方々は、何が起きたかわからないまま津波にのみこまれたことになる。
避難できた父でさえ、もたもた避難の準備をする母に業を煮やして家を出た瞬間に、十数件先の屋根の上に水しぶきを見て驚き、母を引きずるように着の身着のままでやっと生き延びた状態だったらしい。
事前に得ていた「避難する時間は十分にあった」という情報も、女川町の奥の地区(とは言っても、町役場から徒歩10分)ではその限りではなかったということになる。
それ故、ギリギリの避難途上、何名かのご近所の方々が逃げ切れなかったシーンも目撃してしまったようだ。

その後、なんとか避難できた人たちも、一晩中繰り返し襲ってくる津波(公式の情報ではないが「十数回は大きな波が来た」と父は語っている)や、余震に怯えながら過ごしたという。

**************

もはや語る言葉もない。

小さい頃からお世話になった多くのおじさん、おばさん。
しかってくれたり、ほめてくれたり、食べ物くれたり、一緒に泣いてくれたり、、、、
顔を見ればひと声をかけてくれるので、子供の頃は鬱陶しく思うこともあったけど、それぐらい結びつきの強い地区だった。

今はただ、ご冥福をお祈りするしか、自分にはできない。




あまりにも壮絶で、凄惨な“あの日”の話を聞いて、自分自身よくわからない精神状態で、実家のあった場所を父に案内してもらうことにする。
両親が最初に避難し、ブルーシートのテントを張って野営している場所から坂道を100mほど下れば実家なのだが、行き場を失った瓦礫の山がうずたかく道を塞いでいて通ることは出来ない。仕方なく、瓦礫が届いていない山の斜面を迂回するカタチで、実家のあった場所へ近づくことにする。
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数日前に降った雪のせいなのか、津波が運んだ水気のせいなのか、急峻な山の斜面はぬかるんでいてうまく進めない。いつもなら30秒ほどの距離も10分以上かかって、実家の前より50mほど上った地点の道路にたどり着く。
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「ここは○○さんち」「ここは△△おばちゃんの家」
父が説明してくれるのだが、全くピンとこない。
何度も書いてしまうが、あまりにも記憶のイメージと遠すぎる。
イメージと現実を結びつける、僅かなヒントすらない。

やがて、いくつもの瓦礫の山を乗り越えて、実家があった場所に立つ。
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ブロック塀の残骸に、見覚えがある。
ただそれだけ。
それだけしかなかった。

ここで、200mほど下ったところに住んでいた夫婦が家ごと流されて、眠るように並んで亡くなっていたと聞かされても、もはやどんな感情もわいてこない。
ただ何となく、ぼんやりと周囲を見回してみることしか出来なかった。
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そんな中、父がしきりに
「あそこの木に引っかかっている浮き輪だけが、家のモノで見つかっているもの」
と繰り返す。
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兄が必死に上って確認してみたが、別の家のものだとわかった。
その時の父の寂しそうな表情。
きっと、何かここに暮らしていたという“証”のようなものを求めているのだろう。

兄はその後も瓦礫の山を崩しながら“なにか”を探し続けていた。
生き残った近所の人たちも数名、同じように“なにか”を探している。
木にぶら下がるプロパンガスのタンクから、ガスが漏れて危険であるにもかかわらず。


今となっては、何があるわけでもない場所にぼんやり佇んでいると、何故か立ち去りがたい感情に襲われる。だが、従兄弟との待ち合わせの時間もあって長居できず、ひとまずブルーシートのテントへ戻ることにした。
先ほどの、林の斜面を通る道すがら、
「あれはたぶん家の二階だ」と父が言う。
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そう言われればそう見えなくもないが今は、確認するすべはない。
その辺りの写真を撮りつつ、この瓦礫の下にどれぐらいの顔見知りが眠っているのだろう、、、などと考えてしまう。
そんな自分を見て、
「○○さんはあの辺で見つかった」
「△△さんはあそこ」
「もはや涙もでねぇよ。。。」と、父は言った。



その後、テントに戻って一息つきながら、今朝寄った石巻市蛇田の親類宅へ身を寄せることを提案した。この地区の区長をしている父のことだから、「離れない」と言うかもしれないと思っていたが、あっさりとその提案に同意した。
疲れきっている母への気遣いもあっただろうが、父自身が、悲惨な現実から一刻も早く逃れたいという思いを抱いていたのだろう。


ひとまず今回は以上です。
次回は、今後の女川についてや、本道程のデータ、まとめなどをレポートします。
# by kuromori525 | 2011-03-24 07:19 | 女川
3/18〜3/20にかけて強行した、被災地女川への現地入りレポートです。
時系列に沿って、画像を交えつつ報告します。

****************
女川の街全体、女川町立病院の様子を中心にレポートします。

10:30頃 石巻市渡波地区に同行した後輩を残して、いよいよ最終目的地、女川に向けて出発した。
国道398。女川に入るには唯一と言っていい幹線道路を西に進む。
右手には万石浦と呼ばれる海と直結した湖のような地帯が広がるが、意外に平時と変わらぬ光景に、一瞬緊張が和らぐ。
万石浦の終端を過ぎて、石巻線浦宿駅を過ぎたあたりから徐々に沿道の景色が変わり始める。
瓦礫の山、潰れた車。。。これまでの道程では一度も目にしなかった惨状の出現に、緊張が再度高まるが、しかし、まだまだ無傷の住宅も点在している。

女川第一小学校にさしかかったあたりで、国道は通行止めのサイン。
看板の指示に従い、牡鹿半島を縦断するコバルトライン方面に右折して坂道を上る。
坂道を上ってすぐ、左に分かれる道を入って女川町内に向かって進むと、その先には、想像を絶する異形の世界が広がっていた。
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TVや、Web等で、ある程度状況は把握していたつもりだったが、いざ現地に立ってみると。。。言葉を失う。
日が暮れると、すぐに点滅信号に変わる街中の国道。
初めてCDを買った、街唯一のレコード屋。
どんな怪我でも必ず黒い湿布を貼られてしまう整骨院。
歯を抜いてもらった知り合いの歯科医院。
小中高とお世話になった文房具屋。
高校一年から毎年バイトでお世話になった街のスーパー。
記憶の全てが、ガソリンと潮の香りが混じり合って漂う、未知の世界と化していた。

正直、現地でこの光景を目の当たりにした瞬間は、何の記憶も蘇ってこなかった。
あまりにも記憶の中のイメージとかけ離れすぎていて、うまく実像と結びつかないのだ。
TVの中の世界に入ってしまったような、夢の中にいるような、そんな心持ちだった。
現地から帰り、少し冷静になれたからこそ書けてはいるが、未だに現実を受け入れられていない。
年に数回しか帰郷しなかった自分ですらこの状態なのに、震災の直前まで現地で普通に暮らしていた人々の心情は。。。。。。



呆然と変わり果てた故郷の景色を見つめていると、車中にとどまっていた兄から「早くしろ!」と怒声が飛ぶ。どれくらいの間そうしていたのか判らないが、両親との対面も果たせていない事を思い出し、慌てて車内に戻った。
通称女川バイパス?の高台から、緩い下り坂を下って、まずは妹が勤務する町立病院に向かう。
道路は、数日前まで瓦礫で埋まって車が通れる状態ではなかったらしいが、3/19の時点では、最低限の物資運搬ルートとして、車が交互通行できるぐらいまでに片付けられていた。
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高台にあり、街中で唯一無事だったとされる女川町立病院の坂道を上る。
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かなり高台にあるにもかかわらず、車が折り重なって流れついていた。

水没したであろう車が並ぶ駐車場に車を止めて、一階のエントランス部分に向かう。
壁のいたるところに、避難者の名簿や安否を問う貼り紙が並び、その脇には無造作に車が放置されている。
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エントランス付近の状況を見ると、この病院の一階部分は完全に水没したようだ。
中にいるであろう妹に会うべく、必死に入り口を探す。
2階に上る狭い外階段を発見し、急いで駆け上がってみると、入り口は患者とおぼしき多くの人たちでごった返していた。近くにいた看護士の方に妹の所在を確認すると、無言で目の前の受付スペースを指差す。
「あ、いた!!」
マスクをして、いつもの明るい口調で訪れる人々を出迎える、妹の姿がそこにあった。
感涙の再会劇を密かに期待していたのだが、
あっけらかんと「あ、いづ来たの?」と、ごくごく普通の反応。
仕事中だったこともあってか実感がなかったのかもしれないが、逆にいつもと変わらぬリアクションに、なんとも言えない安心感をおぼえた。
受付の人波が落ち着くまで待って、妹の家族(渡波に嫁いでいる)の状態や、震災時の状況などを慌ただしく聞く。
震災時は病院の一階にいたらしく、一階の天井まで水が来て危なかった。
旦那、娘2人、義理の両親は無事。
現在は、一階まで浸水した渡波の家に義理の両親と娘2人がいる。
震災後、一時間だけ帰宅して顔を見ることはできたが、それ以外は病院で働き通し。
旦那は消防隊員なので、消防署に張り付き日夜活動中で、震災後一度も会っていない。
等々。
話す口調は、こちらが拍子抜けするほど普段とかわわりなく、その姿を見て、被災地を訪れている事を忘れてしまうほどだった。
仕事から離れて気を抜いた時が心配ではあるが、まだ小学生の娘2人がいるのだから、夫婦支え合って頑張ってくれる事だろう。
母は強し。


仕事で忙しい妹のところを早々に辞して、両親の目撃情報があった総合体育館に向かうことにする。
町立病院に向けて上ってきた坂道と反対側、石巻線女川駅に向かう坂道をゆっくりと下っていく。
途中、津波にのみこまれた町役場がやけに遠くに見える。
ここから見てもかなりの高さがあるはずなのに、、、津波の勢いはそれすらも凌駕して、多くのものを破壊し尽くしていた。
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より実家に近い地域に入った事もあり、記憶の中のイメージと目の前に広がる凄惨な光景を結びつけようと試みるも、全く出来ない。
かろうじて残存した駅のトイレや郵便局の看板が、自分が生まれ育った街だという事を断片的に突きつけてくる。
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途中、独り身の叔父の家が、土台を残して消え去っている状態を横目で見ながら、総合体育館に向かう坂道を一気に上っていった。


思ったより長くなってしまったので、続きは次回。
次回は、総合体育館の避難所、実家があった女川浜字大原、通称“ずいどう”(石巻線トンネルより奥)地区の様子を中心にレポートします。
# by kuromori525 | 2011-03-24 03:02 | 女川
3/18〜3/20にかけて強行した、被災地女川への現地入りレポートです。
時系列に沿って、画像を交えつつ報告します。

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3/19 仙台を出発して、石巻蛇田経由で女川に入ったところまでをレポートします。


3/19 早朝5時。仙台の従兄弟宅を出発。
石巻へ入るルートとして、富谷町、大和町などを迂回して入るルートを当初計画していたが、45号〜利府〜松島〜鳴瀬〜矢本〜蛇田のルートが通れそうだとの情報があり、燃費のことも考えて後者を選択した。一番の懸念は鳴瀬の橋を渡れるかどうかだったが、前日に親類が通れることを確認していたので安心して出発。
早朝ということもあってか、ほとんど車は見かけなかった。ただ、ガソリンスタンドに並ぶ車の列は相変わらず存在。これまでの道中との違いは、車道に列を作るのではなく歩道や空き地に整然と列をなしている点。救援物資運搬車の通行を妨げないように細心の注意が払われていた。

途中、従兄弟が蛇田の実家向けに持参した玄米を精米するべく、無人精米所を探索しながら進んでいった。停電の関係で、稼働しているであろう精米所は松島あたりまでと予想して、必死に探す。
運良く、松島付近で精米所を発見し無事精米。その直前には今回の道程2回目の給油も実施し、万全の体制で石巻に向かった。

若干の懸念があった鳴瀬大橋も無事通過し、
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石巻西高校(現在は校名が違うらしい)のあたりを抜けて、石巻市蛇田に入った。

紳士服のAOKI?の駐車場にいったん停車し、東京に住む同級生から託された物資をその親類(私の後輩でもある)に手渡す。駐車場に駐車して相手の到着を待つ間、道行く人々の視線がこちらに注がれていることを非常に強く感じた。治安が悪化しているという情報で過敏になっていたせいかもしれないが、他県ナンバー/荷物満載はかなり目立つのは間違いないということだと思う。よくよく考えると、朝の7時に多くの人が出歩いていることも不自然な感じだった(停電生活の影響もあって、多くの人が日の出とともに行動を開始すると、後に兄から聞いた)。

蛇田の従兄弟の実家に到着すると、無事だった兄が出迎えてくれた。
正月以来の再会になるが、白髪も増え、若干やつれた様子に見えたが、顔を直に見れたことにまずは安堵する。
ひとず、積載してきた物資を安全な屋内に下ろして整理し、改めて女川に持参するものを積み込む。原付バイクや、ガソリン、食料の一部は、蛇田で保管してもらうことにした。
一旦落ち着き、叔父、叔母に被害の状況と現状を聞く。
叔母は門脇の勤務先(美容院)で働いていたところ地震に遭い、命からがら日和山に避難したそうだ。地震発生の時点で、お店の床から水が噴き出してきたらしい。
叔父は蛇田の自宅にいて、地震の揺れには驚いたそうだが、津波に関しては実感がないらしい。というのも、蛇田地区の津波被害は、波が襲ってきたというより徐々に水が浸透してきたイメージで、水害といった感じだったそうだ。それに比べて門脇で働いていた叔母は、もろに津波に襲われたカタチで、津波の猛威を目の当たりにしていた。そのような被災状況の差が、震災から一週間経った今も続く興奮状態の差になっているのだと思う。叔父はわりと冷静だが、叔母は常に興奮している様子なのだ。
また、蛇田の家屋は、瓦が落ちて雨漏りはしていたものの(簡易補修済み)3/19時点で電気、ガス、水道全てが機能しており、平素とほぼ変わらない生活をおくれる状態にある。唯一食料の確保に苦労している部分はあるが、近所のイオンに並べば大概の物は調達できる状況らしく、ちょっとした立地の違いでここまで被害に違いが出るものかと、事前情報の凄まじさからの想像の違いにかなり驚いた。

9:00頃、積み荷の整理や情報の再確認、行動計画の調整を終え女川に出発。
まずは、東京から同行してきた後輩の家族を探すため、石巻稲井のマノ地区に向かう。
元々後輩の実家は石巻渡波地区にあるのだが、治安の悪化(放火されたお店の近所)もあって、被害の少ないマノ地区の親類を頼っているのでは?と考えて、念のため向かってみたのだ。
マノ地区は石巻でもかなり内陸の地域で、表面的には平素と全く変わりはない。電気と水道は不通だったが、元々農地なので食料の心配もなく、平穏な空気が流れていた。
そんなのどかな景色を眺めて進みながら、こんな日常を被災者が手にするのはいつのことだろう、、、などと考えてしまう。
後輩の親類宅に、迷いながらも到着して確認してみたが、ご両親と家族はそこにいなかった。
恐らく実家(渡波)で頑張っているとのこと。挨拶もそこそこに、渡波に向かう。
石巻の稲井から、渡波の鳥揚げというところに向かって山道を越える。
渡波に入ると、道路に泥がうっすらと堆積して、所々に地割れが見てとれた。
そんな中、車を走らせ後輩の実家に到着。
急いで玄関に向かう後輩。ガッチリ施錠してある玄関で待つこと数秒。
母親との感動の再会だった。
突然現れた息子に、涙声になるお母さんの声を聞くと、自然と涙腺が緩んだ。
よかった。ますはよかったよ。。。。


持参した物資と後輩を渡波に残し、いよいよ最終目的地女川へ向かう。
渡波から女川へ向かう道路は、特に陥没や地割れもなく今のところスムーズ。
右手に見える万石浦の牡蛎棚も普通に残っていて、震災前と特に変わった様子もなかった。
そんな景色が一変しはじめたのが、石巻線浦宿駅付近を過ぎたあたりから。
瓦礫の山、潰れた車が目立ち始める。
3/18〜3/20 東京>女川>東京 レポート3_d0232038_6111071.jpg














この時点で、今までの道程では遭遇することがなかった惨状を目の当たりにし、かなりの衝撃を受ける。TV等で見聞きして知っていたはずの光景だが、実際に見ると言葉を失う。。
この後数百メートル先に待ち構える異形の景色が、さらに想像を絶するものだった。

次回は、女川町立病院、女川浜字大原、通称“ずいどう”(石巻線トンネルより奥)地区の様子を中心にレポートします。
# by kuromori525 | 2011-03-22 06:24 | 女川

by kuromori525