3/18〜3/20にかけて強行した、被災地女川への現地入りレポートです。
時系列に沿って、画像を交えつつ報告します。
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総合体育館の避難所、実家があった女川浜字大原、通称“ずいどう”(石巻線トンネルより奥)地区の様子を中心にレポートします。
妹の意外に元気そうな姿に安堵しつつ、避難所となっている総合体育館へ向かうことにする。
町立病院の坂道を、石巻線女川駅方面へ下っていく。途中、津波に完全にのみこまれた町役場や、破壊され尽くした駅前の商店や銀行、駅から遥か彼方の高台にある墓場まで流された石巻線の車両などが目に飛びこんでくる。
記憶の中にあるイメージと、目の前に広がる現実がどうしても結びつかず、今すぐ車を飛び出して確かめたい衝動に駆られる。ハンドルを握り、先を急ぐ兄に一時停車を求めるが「両親の無事を確認するのが先だ!」と一喝され、我に返る。
駅があった場所を抜け、第二小学校に続く急な上り坂を越えて、総合体育館にたどり着く。
自衛隊の車両や、難を逃れて避難してある車の列をすりぬけながら、体育館手前の駐車場に車を駐めた。
体育館の前には、妙にゆっくりとした動きの人々が行列を作っている。昼にはいくぶん早い時間だが、炊き出しの行列だろうか?
ひとまず、親類が身を寄せているとの情報があった2階の武道室を目指す。中学の頃剣道部に所属していたせいもあって何度も通った場所なのだが、まったく懐かしさをおぼえない。あの頃とは、あまりにも現実がかけ離れすぎている。
同行していた従兄弟が武道室の柔道場に親類を捜しにいっている間、薄暗い武道室の入り口付近で周囲の状況を改めて見回してみる。
新聞紙や、段ボールを敷いて通路に横たわる老人。
段ボールの粗末な仕切りの隙間に、毛布にくるまりうずくまる中年の女性。
状況がのみこめず、無邪気に走り回る子供達。
そんな野戦病院さながらの避難所内の光景に、息をのんだ。
こんな中で、絶望や不安を抱えて幾日も夜を越えているのか。
自分の貧弱な語彙では、もはや表現できない。
しばらくして戻った従兄弟に、いるはずの親類が今朝仙台に避難した後だったと聞き、総合体育館を出た。そこからは、従兄弟と自分たち兄弟の二手に分かれる。
従兄弟は女川の奥まった地域、清水地区で別の親類を探索し、自分たち兄弟は総合体育館の裏手にある山道を下って実家があった通称“ずいどう”地区を探索することにした。
実は数日前に、両親に会って話をしたという人から「両親は実家のあった場所の近くで野営生活をしているらしい」と聞いていた。生き残ったずいどう地区の住人と、衣食住を共にしているらしい。
15:00に総合体育館に集合する事にして、それぞれの目指す地へと向かった。
総合体育館の裏手には、アスレチックフィールドや、スタンド完備の野球場、県内でも指折りの陸上競技場などがあって、平時は様々な競技会が開催されている。小高い丘の上には東屋と展望台があって、女川町内や遠くは江ノ島まで望む事が出来る。道すがら、何年か前の正月に初日の出を見に来た事をふと思い出した。思い出や記憶は、そうやって蘇ってくるものなのだ。
アスレチックフィールド脇の山道をずんずんと進むと、実家の前を流れる小川の上流に出る。その川に沿って下っていくと、ブルーシートを張ったような場所に煙が見えて、何人かの人影が見えてきた。兄とともに、人影の中に両親姿を探しつつ急いで近づく。
見知った顔が私たちが近づいてくることに次々気がつき、大きな声で迎えてくれた。
よかった、、、、いたよ、いてくれたよ!
はじめは、見慣れない上着をもっこりと着込んだ上にマスク姿ということもあり、母親とはわからなかったが、近くに行って声を聞いてやっとそうなのだと理解する。
次に親父の姿を探してみるが、すぐには見つからない。さらにブルーシートテントの中を注意深く覗いてみると、これまた見慣れない上着の上に、見慣れた顔が見つかった。
よかった。。。。
それにしても、ウチの家族というのは感動の再会という儀式とは無縁らしい。
母親は、年に数回の帰郷時とほとんど変わらぬ出迎えだし、父親に至ってはブルーシートテントの奥に鎮座したまま微動だにしない。それはそれで安心するのも事実だが、いやはや。
しかし、今になって考えてみると、生きていた喜びをうまく表現できない状態だったのかもしれない。隣人の死を目にあたりにし、幾度も襲う津波の恐怖におびえ、冷徹な雪が舞う寒空に凍え、満足に食事もとれない状況。
後にしみじみ父が語った一言を思い出す。
「何もすることがない夜、たき火を囲んで語ったよ。いっそ死んでしまっていた方が楽だったな」と。
一息ついてマスク越しの表情を見てみると、一気に老け込んだ様子がうかがえる。
数ヶ月前に比べ、皺は深くなり、白髪も一気に増え、拭いきれない疲れの色も見てとれた。
多くは語らなかったが、想像を絶する体験の爪痕が、老いた体に深く重くのしかかっている事実を、受け入れざるを得なかった。
*** 父が語った“あの日” *****
聞くところによると、実家のあった“ずいどう”地区で避難できたのは十数名だったらしい。
遺体として見つかったのは、3/19時点で十数名。
百名近くいた住民の多くは、たまたま不在にしていて避難できたのか、もしくは今だ瓦礫の下ということになる。
女川町全体での生存者数の比率(1万人弱の住人中、生存確認がとれたのは6324人・・3/21時点)と大きくかけ離れた現実に、すぐには状況を理解できなかった。
ここまで大きな被害となった要因は、避難指示を伝えるであろう防災無線がまったく機能していなかったことに尽きるようだ。父の話によれば、大きな地震の後、防災無線が何かを伝えようとしているのはわかったが「ガー」や「ピー」など、断続的な音がするだけで全く聞き取れる状態ではなかったらしい。
父はたまたまTVをすぐにつけて、大津波警報が発令されていることを知って避難に動いたが、TVを見ていなかったり、見れる状況になかった方々は、何が起きたかわからないまま津波にのみこまれたことになる。
避難できた父でさえ、もたもた避難の準備をする母に業を煮やして家を出た瞬間に、十数件先の屋根の上に水しぶきを見て驚き、母を引きずるように着の身着のままでやっと生き延びた状態だったらしい。
事前に得ていた「避難する時間は十分にあった」という情報も、女川町の奥の地区(とは言っても、町役場から徒歩10分)ではその限りではなかったということになる。
それ故、ギリギリの避難途上、何名かのご近所の方々が逃げ切れなかったシーンも目撃してしまったようだ。
その後、なんとか避難できた人たちも、一晩中繰り返し襲ってくる津波(公式の情報ではないが「十数回は大きな波が来た」と父は語っている)や、余震に怯えながら過ごしたという。
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もはや語る言葉もない。
小さい頃からお世話になった多くのおじさん、おばさん。
しかってくれたり、ほめてくれたり、食べ物くれたり、一緒に泣いてくれたり、、、、
顔を見ればひと声をかけてくれるので、子供の頃は鬱陶しく思うこともあったけど、それぐらい結びつきの強い地区だった。
今はただ、ご冥福をお祈りするしか、自分にはできない。
あまりにも壮絶で、凄惨な“あの日”の話を聞いて、自分自身よくわからない精神状態で、実家のあった場所を父に案内してもらうことにする。
両親が最初に避難し、ブルーシートのテントを張って野営している場所から坂道を100mほど下れば実家なのだが、行き場を失った瓦礫の山がうずたかく道を塞いでいて通ることは出来ない。仕方なく、瓦礫が届いていない山の斜面を迂回するカタチで、実家のあった場所へ近づくことにする。
数日前に降った雪のせいなのか、津波が運んだ水気のせいなのか、急峻な山の斜面はぬかるんでいてうまく進めない。いつもなら30秒ほどの距離も10分以上かかって、実家の前より50mほど上った地点の道路にたどり着く。
「ここは○○さんち」「ここは△△おばちゃんの家」
父が説明してくれるのだが、全くピンとこない。
何度も書いてしまうが、あまりにも記憶のイメージと遠すぎる。
イメージと現実を結びつける、僅かなヒントすらない。
やがて、いくつもの瓦礫の山を乗り越えて、実家があった場所に立つ。
ブロック塀の残骸に、見覚えがある。
ただそれだけ。
それだけしかなかった。
ここで、200mほど下ったところに住んでいた夫婦が家ごと流されて、眠るように並んで亡くなっていたと聞かされても、もはやどんな感情もわいてこない。
ただ何となく、ぼんやりと周囲を見回してみることしか出来なかった。
そんな中、父がしきりに
「あそこの木に引っかかっている浮き輪だけが、家のモノで見つかっているもの」
と繰り返す。
兄が必死に上って確認してみたが、別の家のものだとわかった。
その時の父の寂しそうな表情。
きっと、何かここに暮らしていたという“証”のようなものを求めているのだろう。
兄はその後も瓦礫の山を崩しながら“なにか”を探し続けていた。
生き残った近所の人たちも数名、同じように“なにか”を探している。
木にぶら下がるプロパンガスのタンクから、ガスが漏れて危険であるにもかかわらず。
今となっては、何があるわけでもない場所にぼんやり佇んでいると、何故か立ち去りがたい感情に襲われる。だが、従兄弟との待ち合わせの時間もあって長居できず、ひとまずブルーシートのテントへ戻ることにした。
先ほどの、林の斜面を通る道すがら、
「あれはたぶん家の二階だ」と父が言う。
そう言われればそう見えなくもないが今は、確認するすべはない。
その辺りの写真を撮りつつ、この瓦礫の下にどれぐらいの顔見知りが眠っているのだろう、、、などと考えてしまう。
そんな自分を見て、
「○○さんはあの辺で見つかった」
「△△さんはあそこ」
「もはや涙もでねぇよ。。。」と、父は言った。
その後、テントに戻って一息つきながら、今朝寄った石巻市蛇田の親類宅へ身を寄せることを提案した。この地区の区長をしている父のことだから、「離れない」と言うかもしれないと思っていたが、あっさりとその提案に同意した。
疲れきっている母への気遣いもあっただろうが、父自身が、悲惨な現実から一刻も早く逃れたいという思いを抱いていたのだろう。
ひとまず今回は以上です。
次回は、今後の女川についてや、本道程のデータ、まとめなどをレポートします。